科学と非科学のあいだ《#6》
「異類婚姻譚」


遠藤 結万

世界は科学のみで構築されているのか。ITのフィールドにいながら占いの世界でも精進中、遠藤結万が考察する「日常に潜むファンタジー」企画!

「美女と野獣」がヒットしている。エマ・ワトソンによる素晴らしい演技と、音楽性の高さが評価されているようだ。

美女と野獣のような物語は「異類婚姻譚」と呼ばれる。

これは、東洋と西洋では多少ケースが異なる。東洋では、例えばチンギス・ハーンが狼の子孫であると信じられたように、人間と神聖な動物の交雑はタブーではなく、むしろ神聖なものとして受け入れられるケースが有った。

西洋では、魔法によって獣に姿が変えられてしまった、というケースが多い。美女と野獣だけではなく、「プリンセスと魔法のキス」などもそうだ。

正確に言うと、これは中世以降のことだ。ヘレニズムの中では少し事情が違う。ギリシャ神話では神と人間の恋物語は沢山ある。西洋ではいつからか、人と人ならざるものは明確に分かれてしまうようになったが、かつてはその境目は曖昧だったのだ。

人ならざるものと人との恋は、なぜ西洋文明、言い換えるとキリスト教圏の中では禁じられたのだろう。

人ならざるものと交雑するということは、人ならざるものの力を取り入れるということになる。

エジプト神話のアヌビスのごとく、半獣半人の存在が多くの神話でポピュラーなのは、人間の中に人ならざるものの力を取り込みたいという願いが、古来から普遍なものだったのだ。

人ならざるものの力を認めることは、一種の神秘主義である。それはキリスト教的世界観の中では許容されなかった。それらは「ペイガニズム」と呼ばれた。そうして、狼男は恐ろしい怪物になり、黒猫に変身する女性は魔女とされた。

彼らは、人ならざるものの神秘性を理解し、それを恐れたのである。

異類婚姻譚はヨーロッパにおいて長く禁忌に近かった。近世になり、18世紀の終わり頃に「美女と野獣」が誕生した際も、そのあり方は他の文化圏とは少し違っていた。

美女が結婚する相手は、あくまで「魔法によって野獣に変えられてしまった青年」である。

鶴の恩返しは、鶴が人間に化けるわけだが、ここでは人間が意図せず動物に化けてしまっている。

結果として、人間至上主義の現在においては美女と野獣の物語は普遍的な強さを持つことになった。現代において、獣はすでに神秘の対象ではないのだ。

さて、そこで日本のことを考えてみよう。実は、日本では未だに本来的な意味での異類婚姻譚が生き生きとした物語として語られている。とりわけ、アニメの分野においては顕著である。

宮崎駿監督の深い日本古典への理解が、この状況をもたらしたことは間違いない。

「もののけ姫」
「千と千尋の神隠し」
「崖の上のポニョ」

などは、すべて異類婚姻譚であり、主人公の相手役となる彼ら彼女らは獣の血を引くか、神や獣が一時的に人間の姿を取っているものたちだ。

さらにルーツを辿れば、手塚治虫は「火の鳥」などでも多数の異類婚姻譚を描いている。

また、スタジオジブリに影響を受けた多数の作家が、異類婚姻譚を鮮やかに描いてもいる。

「おおかみこどもの雨と雪」
「バケモノの子」
「夜明け告げるルーの歌」

時代は少しかぶるが、「うる星やつら」なども異類婚姻譚と言えるだろうか。

異類婚姻譚は、人と人ならざるものの境界を曖昧にし、その間をつなぐものである。その二つの境界が曖昧になる時、我々は人としての殻を飛び越え、世界と、あらゆる生命と繋がることができる。

そしてまた、異類婚姻譚は、結婚が必ずしも何かに縛られる、あるいは何かを縛るものでないことを示唆している。昨今だと同性婚を始めとした、従来の規範に縛られないパートナーシップのあり方が議論されているが、日本の伝統を考えるに、今の法制度があまりに硬直的なのではないか?という議論にもなるだろう。

我々は古来より、時に鶴や河童と、あるいは蛇や犬と契りを結びその力を取り入れてきた。現代があまりに「人間的」になってしまった今、我々はまた、そのような契りを必要としているのではないだろうか。

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