【翻訳】Critical Views On Cultural Cues《#1》
東京の電車での「正しい」振る舞い


Lana Tran

フランス×ベトナム系カナダ人キュレーターのラナ・トランが「他者との関わりかた」を問い直す! 第一回のテーマは「東京の電車での正しい振る舞い」! (写真提供:ダニエル・アレクサンダー・ハリス)

トロントから東京に引っ越してきてから5年、初めてこの街の電車に乗った時のその効率性と清潔さに対する感動はまるで遠い記憶のようだ。残業を終えたサラリーマンと共に、味気のない蛍光灯のした満員電車に揺られること自体ある意味一つの試練なのだが、それに加え時には突然脚(運が悪いとさらに最悪な場所)を突然掴まれたりする現実を、公共交通機関を利用する女性は日々実感しなければならない。しかし、これだけをあげればそれは日本に限った問題ではない。

ここ10年ほど、公共機関や場所でのマナーを訴える広告が目につき、それらは最近矛盾している上に恩着せがましいと若い層から非難されている。コーセーが「キレイの選択」と名付けたキャンペーンで乗客に正しい痩せ方や化粧の仕方を問いかける中、東京メトロは公共の場で化粧を行うことは恥ずべき行為だと広告で訴えかける。あるポスターでは、「痴漢にあったら必ず大声をあげて周りに知らせるように」、と書いてあるのに、その隣には「周りの迷惑になるので、大声を出すのはやめましょう」と書いてある。これらは一種の病気の症状なのでは、と正直感じてしまい、その原因を探るために誰かの許可なんて待っていられない。


Kose Cosmetics “Beautiful Choices” ad. (via “umeboshi.in”)

Tokyo Metro “Please do it at home” ad. (via “http://jipangnet.blog.fc2.com/”)
「なんで社会はこんなことになってしまったのだろうか」ーー家路につくある夜、心の奥のミレニアルが突然叫び出す。リベラルな悩みが重くのしかかる中、その気持ちに堪え兼ね涙ぐみ始めると、ある事実に気づく。目の前に座っている女性も声を殺して泣いているのだ。数分葛藤する。バッグに入っているキャンディーを渡して、「こんなものしかないですが、食べてください」とちょっと優しく言って、次の駅(家まではまだ5駅あるのだが)で降りようか。でも、明らかにこの女性は自分が泣いていることを隠そうとしている。気づくこと自体が迷惑ではないのか。結局何もしなかった。それを今でも後悔している。

そう、やっぱりどこか、制限が多く、全く信用ならないトロントの公共交通機関を懐かしんでいる自分がいる。大声で電話で話しているおじさんも、巨大なサンドウィッチをくちゃくちゃ食べている若者も、確かに迷惑に感じる時もある。でも、なんとかなってるじゃないか。踊りまくってる青年たちも、犬を車両から車両へ散歩しているあの男さえも、どこか懐かしい。恥ずべきことなんてない。それも人生。実は「このような」電車の中で私自身、昔、どうしようもい寂しさに覆われ泣いていた中、全く知らない他人に話しかけられ、人生相談に乗ってくれたのだ。

そこで思ってしまう。東京の電車は、もはや「人間」のためにあるのだろうか?いろんな問題や悩みを抱えている人間がこれだけ集まっているのにも関わらず、それについて話すことができないのに、「マナーはこうだ」という意味はあるのだろうか?ホームで倒れている人に対して、「大丈夫ですか?何か必要ですか?」と訴えかけるポスターはどこにあるのだろうか?

日本に外国人としていると、「あっち系の外国人」にならないようプレッシャーを常に感じる。そう、日本の文化や社会に溶け込むことができない外国人。外国人全員のイメージを下げてしまう外国人。しかし、日本に観光客が増え、外国人との対応が増える中、もう一度「相互的な国際的交流ってなんの意味があるの?」が問い直されるべきだ。話し合う時がきた。

原文:http://thynk.ooo/2017/04/30/critical-views-on-cultural-cues《1》-how-not-to-make-a-scene-on-the-tokyo-metro/
翻訳:コミンズ リオ

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